実力主義の外資で長く「やってける」メンタル

長年「実力主義」と言われる外資系企業に勤めていて、最近自分自身も似たような事を思う事があります。

真面目な人ほど心をすり減らす…「職場で心を病む人」に共通する”ある思考法”

「本当の生きやすさ」は競争や実力とは無関係

私たちは生まれたときから、常に競争にさらされ、他者から評価されています。特に最近は、「実力主義」を謳う企業も少なくありません。それは「たえず競争し続けなければならない」ということでもあります。常に競争と評価にさらされているうちに、人の心の中には自然と「競争に勝たなければダメ」「トップでなければ価値がない」といった価値観が植えつけられます。競争に勝ち、高い評価が得られたときには、自尊心や承認欲求、名誉欲が満たされますが、世の中には必ず「上には上がいる」し、心身の状態だって、いいときばかりとは限りません。そして、競争に負け、評価が下がると、「自分はダメな人間だ」「自分には価値がない」などと思うようになります。

「完璧」を目指す人ほど自分を追い詰める

自己肯定感というのは、「完璧でなくても優秀でなくても競争に負けても、自分はこれでいい」という感覚のことです。自己肯定感が持てない人は、とても優しかったり、頑張り屋だったり、賢かったり、仕事ができたり、優れたところがたくさんあるにもかかわらず、周りからの評価も高いのに、「自分なんて」が口癖だったりします。ほかの人からすると「それ以上、何を求めるの?」と思ってしまいますが、本人は至って真面目。そして、自分で自分のことを「OK」と思うことができない分、「優秀である」「成績がよい」といった評価を得て、他人から「OK」と言ってもらうことで、「自分に価値がある」ことを証明しようとするため、勉強や仕事にものすごくのめり込みやすいのです。

ところが、そんな人は、どれほどいい学校や会社に入り、重要なポストに抜擢され、成果を上げても、「嬉しい」「認められた」と喜ぶより、「なんとかノルマを達成できてほっとした」と思っていたりします。喜びよりも、安心。それも、束の間の安心にすぎず、すぐに「次はうまくやれるだろうか」「もっと優秀な人が現れて、自分の存在価値がなくなるんじゃないだろうか」といった不安にさいなまれてしまうのです。競争の世界の中で、評価のプレッシャーに常にさらされている間は、いつまでたっても「これでいいや」と思えないのです。

「競争」との関わり方を見直そう

お金や名誉、肩書き、家や車などの所有物のように、他人との比較によって満足感が得られるものを「地位財」、自由や健康、愛情など、他人と比べなくても満足感が得られるものを「非地位財」といいます。このうち、競争によって手に入れられるのは地位財だけであり、非地位財は、競争や評価とは無縁のところで得ることができるものです。そして、「豪邸を建てた」「高級車を買った」といった地位財による幸福感は、非地位財による幸福感と比べて長続きしないことが明らかになっています。地位財と非地位財は車の両輪みたいなもので、地位財によって手に入る短期的な幸せも、もちろん否定はしません。ただ、人を長期にわたって本当に幸せにしてくれるのは、非地位財によって手に入る満足感です。私は、「競争の世界との関わりを一度見直し、自分にとって適切な距離で関わること」は、幸せに生きるための、かなり重要な要件だと思っています。

競争をどれだけ楽しめるかは人によります。「たとえ負け続けても、勝負ごとが楽しくて仕方がない」という人は、好きなだけ関わればいいでしょう。しかし、あなたがそういうタイプでないならば、ときには競争を楽しんだり、他人からの評価に喜んだり悲しんだりすることはあっても、それらはあくまでも「人生のスパイス」程度だと考え、自分自身の価値を判断する基準にしないほうが賢明です。

「自分の中のポンコツさ」を愛する

そのうえで、競争や評価とは無縁な人または世界とのつながりを大事にすること。さらに、自分の中の「欠損している部分」をそのまま受け入れ、愛してくれる人と出会えたら最高です。「欠損している部分」というのは、「ポンコツな部分」「いびつな部分」のことであり、「美しさ」や「優秀さ」なんかと違って、他人との競争の対象になりにくい部分でもあります。競争の世界から適度に距離を置き、自分の中のポンコツさ、いびつさを面白がり、愛してくれる人と出会い、自分でも、自分の中のポンコツさ、いびつさを認めることができるようになったとき、人はようやく「完璧でなくても優秀でなくても競争に負けても、自分はこれでいい」「自分は自分であって大丈夫」という感覚を持つことができ、自分の物語を生きることができるようになります。